子どもの頃、近くの駄菓子屋さんで何かを買ってもらうのが大好きでした。
でも、私と行くと必ず何かをねだられるのがわかっている母は
買い物に私を連れて行くのは、ほんのたまに・・・でした。
私の口癖は、「なんか買って」だったように思います。
ある日、プールが好きな私は、バスに乗ってプールに通っていたのですが
バス停で待っている間に、みるみる天候が変わって
ゴロゴロと雷が鳴り始めたんです。
これは、今日はプールは無理かなと自分でも思って、
家に戻り始めたとき、
向こうの方に母の姿が見えました。
母も雨が降りそうなので、私をバスに乗る前に止めに来たようでした。
戻りかけている私を見た母は、向こうの方で、私に向かって帰って来るようにと手招きしていました。
で、そこからなのですが、バス停と家の中間ぐらいに
そのいつもの駄菓子屋さんがあります。
私は、母が迎えに来てくれたので、何か買ってもらおうと足早に母の元に向かいました。
その様子を見た母は、そのままくるりと踵を返して
家の方に行ってしまいました。
私は、それを見て、
私がなにか買って、というのを分かっている母は
先に帰ってしまったんだ、逃げられた。みたいに思ったのだと思います。
子どもだった私は、
「欲しいと言ったら逃げられる」
「私には与えられない」
「うちにはお金がないんだ」
そんな風に思ってしまった。
もちろん、母に悪気はなかったと思います。
急いで出てきて、お金を持って出なかったのかもしれません。
けど、子ども心としては「拒否された」記憶だけが残り、
いつしか傷痕として、ずっと心に残ってしまっていました。
そして、この傷痕が私の人生に大きな影響を与えていることに気づいたのは、
この頃から何十年も経ってからでした。
社会人になってからも欲しいものは、真っ先に値札を見る。
これ買って、とは言えない。
本当はやりたいことがあっても金額を聞いて諦める。
自分のためにお金を使うと、罪悪感が残る。
そんな大人になってました。
年月が過ぎ、自己啓発を学んだり、
コーチングを深めていく中で気づいたんです。
私が欲しかったのは、物ではなかったかもしれない。
「欲しい」その感情を否定されたくなかったんだ。
買ってくれなくても良かった。
ただ、もっと別の言い方があったのではないか。
その時の記憶は、驚くくらい鮮明で、
私の心にずーっと引っかかっていました。
事あるたびに、この時の切ない記憶がよみがえってくるんです。
だから私は、子どもの頃の自分と徹底的に向き合いました。
「あの時、どんな気持ちだった?」
どれだけ悲しかったのか。
どれだけ我慢していたのか。
あの頃の自分と向き合いました。
そして少しずつ、
「欲しいと思っていい」
「受け取っていい」
そんな許可を自分自身に出していったのです。
すると不思議なことが起きました。
お金との関係、お金の流れが変わりました。
自分のために、堂々とお金を使えるようになった。
学びたいことに投資できるようになった。
好きな服を選べるようになった。
好きなことを仕事にして、収入を得られるようになった。
私は今でも思います。
お金の問題だと思っていた多くは、
実はお金の問題ではないのです。
その奥にある、
「欲しがってはいけない」
「受け取ってはいけない」
という見えない呪いだったんだと。
今では娘が「これ欲しい」と言った時、
もちろん何でも買うわけではありませんが、
その気持ちを決して否定しないようにしています。
なぜなら私は知っているから。
「欲しい」という気持ちは、
わがままではなく、エネルギーからくる純粋な欲望だから。
もし今、お金に不安があるなら。
もし今、豊かさを受け取ることに抵抗があるなら。
もし今、本当は欲しいものがあるのに、
「私なんて」と遠慮してしまうなら・・。
もしかするとあなたの中にも、
子どもの頃から握りしめてきた
見えないお金の呪いがあるのかもしれません。
私はこれまで、頑張っている女性を多く見てきました。
一生懸命努力してるのに、なぜか満たされない人。
家族のためにはお金を使えるのに、自分のためには使えない人。
受け取ることに罪悪感を持っている人。
その多くが、自分でも気づかないうちに、
私のように、幼い頃つくられた呪いに縛られていました。
私は今、
「価値観」を満たす生き方のための支出に罪悪感を持つ必要はないと思っています。
頑張らないと価値がない。
我慢しないと愛されない。
苦労しないとお金は手に入らない。
そんな呪いを握りしめたまま、
自分の可能性に蓋をして、
人生を終えてほしくないんです。
もし幸せな豊かな人生へとシフトしたいなら、
もっと軽やかに愛もお金も受け取りたいなら、
あなたを縛っている呪いに気づき、共に手放していきませんか
